封印されたDSP μPD77C20/MSM77C20
- 昨年末(2020.12.15)にNECのデジタル・シグナル・プロセッサー(DSP) μPD7720 がIEEEマイルストーンに認証されたというニュースがありました.
世界初のDSPというとNEC以外に、AT&T(ベル研)やTI (Texas Instruments) の製品の名前もあがってくるのですが、一般に外販されて製造元以外のメーカーの各種製品に使用された実績を作ったという意味ではμPD7720が最初になります.
NEC、「大規模遺留指紋照合システム」と「デジタル信号処理プロセッサ」がIEEEマイルストーンに認定 (NEC)
NECがIEEEマイルストーンのダブル受賞、遺留指紋照合と商用DSP (日経XTECH)
- このニュースに関連して、μPD7720 (NMOS)のCMOS版でNECと沖電気が共同開発した μPD77C20/MSM77C20 に関して少し知っていることを書き留めておきたいと思います.
μPD7720についてはNECの西谷隆夫氏や川上雄一氏が書かれた資料をネット上で見ることが出来ますが、それらの中ではCMOS版のμPD77C20には一切言及されていません. NECの方が作成されたDSPの歴史に関する資料ではμPD7720のCMOS版後継製品はμPD77C25ということになっています.
- 一方、第三者によるDSPを扱った文献の中にはNMOSの7720とCMOSの77C20を取り違えて、世界初の商用DSPをμPD77C20 としているものもあり、混乱が生じているようです. このような誤りを正すためにも、事実は事実として記します.
7720と77C20を取り違えている文献
Electronics World, May 1990
- μPD7720に始まるDSP製品の系統樹を描くと下図のようになります. 緑色の枠内は、今となってはNECでは無かったことにされている製品です.
- 7720はマスクROMを内蔵していますが、RAM/ROMを外付けすることは出来ません. 出荷された製品は各ユーザーごとのROMコードを持っています.(顧客別のカスタム品になります)
- 内部のプログラムの書き換えが出来ない7720ではユーザーがプログラム開発をおこなえないので、開発ツールとしてEVAKITが用意されています.
EVAKITに搭載されているのが、メモリ外付け版の7721です. 外部メモリ接続のためにピン数が多くなるので、パッケージは7720とは異なります. 通常この種のエミュレータ専用チップは一般ユーザーには外販されません.
- 77P20は7720のROMを書き換え・紫外線消去可能なUV-EPROMとしたものです. シュリンク版の7720Aをベースに設計されている可能性もあります.
- 7720Aは7720のシュリンク版です. 当時は教科書どうりのMOSデバイスのスケーリング則が素直に成り立っていた古きよき時代なので、マスクデータの単純縮小で改良版を作ることが出来ました.(縮小率0.8倍でも、チップサイズとしては0.8x0.8=0.64倍、ウェハー1枚から取れるチップ数は1/0.64=1.56倍になります)
- 77C25はNMOSの7720の内蔵メモリ容量を増やしてCMOS化、高速化したものです. データシートによれば例外はあるものの7720/77C20/77P20とコンパチブルであるとされています.
- 77P25は77C25のUV-EPROM版です.
- 77C20はNMOSの7720をCMOS化したものです. NECの品名が μPD77C20、沖電気の品名が MSM77C20 です.
- μPD77C20Aは77C20の単純縮小版です.
- MSM77C20Aの詳細は不明なのですが、おそらくμPD77C20Aと同様の単純縮小版のはずです. 上図ではNECと沖電気が別々に77C20のシュリンク版を作ったように描いていますが、μPD77C20A と MSM77C20A が同一の設計である可能性もあります.
- さて問題の77C20ですが、データクエスト(Dataquest)の日本の半導体技術のレポート(Fourth Quater 1985)の中に製品発表時の記録が残っていました. 発表時期は1985年ではないかと思われます. 日本語の新製品発表資料は見つけられませんでしたが、国内では業界紙のみならず、一般のパソコン雑誌の新製品ニュース欄で取り上げられていたのを記憶しています.(旧電電ファミリーのNEC、富士通、沖電気は当時あらゆる事業分野で競合していて、NECと沖電気の共同開発というのは前代未聞でした)
データクエストのレポート
Fourth Quarter 1985
データクエストのレポート
First Quarter 1986
- 77C20については技術資料を探し出せなかったのですが、77C20Aのデータシートがあるので、77C20が発表しただけのペーパーマシンなどではなく実際に販売されたデバイスであったことは間違いありません.
先に述べたように、77C25/77P25のデータシートには77C20との互換性の記述があり、これも77C20が実在したデバイスである証拠になります.
77C25/77P25データシートの
77C20との互換性の記述
なお沖電気のMSM77C20は国内外の生産終了デバイスの在庫販売をしている業者で取り扱っているところがあります. ROMコード品なのでコレクターズ・アイテムにしかならないのですが、ちゃんとROMコード番号がついた
MSM77C20-007, MSM77C20-015 などという品名で業者の在庫リストに記載されています.
1987年版のデータブックにもちゃんと記述があります.
- NECと沖電気が共同開発して公式に新製品発表までした77C20が今は『存在しなかった』かのような扱いを受けている理由は単純です.
共同開発とは名ばかりで77C20の設計開発に関するNECの寄与率がゼロだったからです.
- チップ自体がNECではなく沖電気が77C20を開発した証拠になります. μPD77C20と同時期のNECのCMOSプロセッサ(例えばIntel8088/8086互換のV20/V30やその他の組み込み用4bit/8bitプロセッサ)のパッケージを開封して顕微鏡観察してみれば、μPD77C20が他のNEC製品とはまったく異なるレイアウト設計をしていることがすぐに分かります. 一方、沖電気の製品とμPD77C20を比べれば設計スタイルが同じであることが分かるはずです.
- 共同開発製品にもかかわらずNECの77C20の設計に対する寄与がゼロであるのは、いわゆる『大人の事情』によるものです. 『大人の事情』に関しては、あと10年ぐらいたって関係者から文句を言われる心配が無くなった頃に追記したいと思います.(日本電気株式会社からも沖電気工業株式会社からも、とうの昔に半導体事業は分離されて本体には当時のことを知る人は残っていないはずですが....)
直接この製品に関わった当事者の方々にとっては差しさわりがありすぎて、伝聞の形の情報しか知らない第三者でなければ明かせないこともあるのです.(当時の半導体業界の様子を生々しく物語るとともに、IEEEマイルストーンになった
μPD7720 がどれだけ市場に大きなインパクトを与えた製品だったかが良く分かる印象的な出来事でした)
- LSIのメーカーごとの設計スタイルの違いは、PADリング部分、チップ外周の電源/グランド配線部分だけを見てもはっきり分かります. 個人でもお金があれば専門業者に依頼してチップ開封、写真撮影をしてもらうことが可能です.(モールド・パッケージも綺麗に開封出来ます)
- 製品のバリエーションの多い組込用プロセッサでは、あるメーカーが同時期に設計した製品群には共通の特徴があらわれます. 複数の設計チームを動かしている場合でも、設計手法・設計ツールが共通なのですから当然です. メモリやIOセルなどはマスク設計のレベルでも部品として共有化・再利用をします.
当時の集積度の低いプロセッサでは、デザイン・ルール(集積度)が変わっても極端にアートワーク・デザインの見た目が変わることもありません.(現在のIntelプロセッサなどとは違います)
- 過去の記憶を頼りにネット上で資料を漁っていたら、米国のメーカーが7720/77C20を生産・販売していたことが分かりました.
GOULD AMIの1990年のカタログにS7720, S77C20という製品が記載されているのですが、内容はNECのデータシートの丸写しです.
1984年のカタログにはFuture Productsとして「S7720 - Second Source For NEC7720 Digital Signal Processor」の記述があります.(1984年にこの記述があることを見て思い出したことがあるのですが、それに関しても10年ぐらいたったら追記したいと思います.)
- 当時の日米半導体摩擦などの事情から、米国製品として米国企業での委託生産・販売がおこなわれたのではないかと推測されるのですが、詳細は不明です. NATO軍の暗号化電話機に77P20が使われていたという基板・チップの写真つきの情報(写真1、写真2)があったので、米国でも軍・政府向けの機器に7720/77C20が使われて、顧客からの米国産DSP供給の要望に応えたということは十分にありうると思います. NECのDSPには公式には語られることのない謎が多いようです.(★追記
: 古い書籍でGOULD AMIでの7720, 77C20のセカンドソース生産に関して言及したものがあるそうです)
- 後から調べて分かったのですが、おもにカナダ軍で使用されていたコリンズ(Rockwell/Collins)のHF-2050という短波受信機に7720が使われていたそうです. この受信機はアマチュア無線家向けに国内でも中古品が流通しているようで、相当な数が生産されたのではないかと思われます. もしかしたら短波受信機に限らず、かなりミッション・クリティカルな軍用機器・兵器にも7720が使用されていたのではないでしょうか?
- NECの米国法人の工場の製造製品の1999年の信頼性レポートには7720A, 77C20A, 77C25が記載されているのですが、NEC現地法人の生産とGOULD AMIでの生産との関連もまた不明です.
- GOULD AMIの1984年のカタログのFuture ProductsにはS750X, S78XXというマイクロプロセッサも記載されているのですが、これに相当する品名のNECの4bit/8bitマイコンがあります. ただし1990年のカタログにはDSP以外のプロセッサは記載されていません.